星、読みうるならば

 

 

 

 (すず)やかな空気が満ちている。広い宮の一室―――そこに居座る人間が、たった二人しかいないのであれば、それも当たり前だった。そして今の一瞬の間に、一層涼やかさが濃くなったと感じたのは、二人のうちの片方の心が宮の外へと出て行ってしまい、その分風通しがよくなったからだろう―――

 詩的な表現が似合う性分でもなく、シュガは(ひそ)やかに嘆息(たんそく)した。教本の解説を止めて、視線を隣へ向ける。自分と同じく本と筆記用紙を机に並べ、板の間に着座する少年……チャグム皇太子。少年の注意が、授業の内容などではなく、何やら計り知れない部分に向いているという現実は、その眼差しを見れば一目瞭然だった。瞳に浮かぶ表情がよどんでいる。その瞳が映すものは、難解な問題ではなく、部屋の(すみ)だ。

 こちらの手が止まったことにようやく気づいたのか、相手がゆるりと顔を向けてきた。そのまま何か言いかけるが、先手を打って、口火を切る。

「何をお考えで?」

 効果は抜群だった。一瞬見せたきょとんとした顔が、驚嘆(きょうたん)とでも言うべき引きつりに塗りつぶされるのを見つめ、シュガは苦笑した。

「数式を解くことに、柱の装飾を凝視(ぎょうし)する必要はありますまい? あなたは今、何を解こうとしておいでなのですか」

「……あの柱」

 チャグムが、視線を再度、部屋の(すみ)へと向ける。

 つられ、彼もそれを(なが)めた。確かに、そこにあるのは柱である。ただし、見上げても視線が追いつかない巨大さと壮観さを鑑みて言及するなら、神木とでも言ったほうが近かろう。シュガは建築には門外漢(もんがいかん)であったが、その柱が、単に支柱としての役割だけを与えられたものでないことくらい一見で知れた。白く(つや)を帯びたそれは表面に美しく彫刻が施されており、こぼれおちる陰影さえ芸術的に、昼下がりの宮の床へと広がっている。腕に覚えのある者がその威信にかけ、労力と月日を費やしつくした挙句に献上したものと見てまず間違いない、極上の芸術である。

チャグムが、言葉を続けた。

「太く、立派だな。ぎしりと中が詰まっている。細かい彫琢が施されても(つぶ)れてしまわないのは、そのためだ。素晴らしい」

「はあ。まことに」

 意図が分からない以上は、とりあえず同意だけにとどめておく。と。

「なぜ、ここにあるのだろうな」

「は?」

 思わず間の抜けた声を出してしまったが、相手にそれを気にした様子は無かった。最早(もはや)チャグムは、柱すら見てはいない。その先にある不可視のものを、熱を帯びた視線で絡めとろうとしている。

「衣住食は、生きるのに絶対に必要だ。木は服を織ることができる。家を作ることができる。火を燃やすし、飯を炊くことができる。そこに柱は要らぬ。いや、百歩譲って、住む家に柱が必要だとしても、このような華美は、家屋を支えるに必要とは思えない」

 そこまで一息に語り……そして、感情が収まらぬままこれ以上語っても、まとまりがないと、分かったのだろう。チャグムはかすかにかぶりを振って言葉を止め、単なる呼吸に必要とされる以上に吐息した。ため息というほどではなかったが、そこに含まれる思いは、それをつく時と大して変わらなかったに違いない。幼さの残る相貌(そうぼう)は、わずかに陰鬱(いんうつ)な色をにじませていた。

 これ以上は相手に語らせるに忍びなく、シュガは、端的に内容を確認した。

「この柱になるはずだった大木が、山から単に切り出されて市街へ運ばれていたなら、今頃は民の生活の(うるお)いにもっと役立っていたはずだ……と?」

「甘い考えと思うか?」

 少年がその顔に、年齢にそぐわない色を浮かべている。笑みに似ている―――あえていうなら、苦笑いに似ているが、どちらとも別のものだった。高い場所に咲いていると分かっている花に手を伸ばしてみて、やはり届かなかったとでも言うような。

「これだけの木があればしばらくは(たきぎ)に困らない。家の足しにもできる。服も、紙も作ることができよう。何人分の飯の煮炊きができるだろうか。この考えを甘いと思うか?」

「いえ。若いとは思いますが」

 告げて、シュガは口元を()でた。それでうまく隠しおおせたつもりだったが、一瞬前まで浮かんでいた微笑を、(さと)い少年は見逃さなかったらしい。チャグムの憮然(ぶぜん)とした雰囲気が深まらないうちに、シュガは続けた。

「あの柱、確かに元をたどれば木です。なるほど、殿下は正しい。職人が砕けば布に、大工が使えば家に、庶民が燃やせば火種になるでしょう」

 と、そこで、壮麗な柱に瞥見(べっけん)を送る。相も変わらず美しい。ここでしか保てぬ美しさだ。

「しかし皇太子が使うには、この木は柱でなければならないのですよ。職人でも大工でも庶民でもないあなたしか、この材木を、この柱でしか手に入れることができない。その厳然(げんぜん)たる事実こそが重要であるがゆえに、材木の用途も、あなたにとってはこれしかありえない。おわかりですか?」

「……成る程、な」

 チャグムがそう言い出すのに挟んだ沈黙は短かったが、口から出任せというわけではないらしい。何らかの形で、得心したのであろう。チャグムの浮かべた笑みは、()えた雰囲気の中に、わずかに歳相応の気配を取り戻していた。

「そうだな。そうだ。柱をばらばらにして使ったらどれだけ節約できるか―――なんぞ考える泥臭い皇太子、誰もありがたがりはしないな」

と、ずっと握ったままだった筆を、すずりに放り出す。そして少年はぶつぶつと、冗談めかして(つぶや)いた。

「まったく、どうせいろいろ刻み込まれた柱なら、タンダの家の柱のほうがもっとおもしろかったぞ」

「ははは……」

「本当だ。なにせ、背丈を測ったキズの横に『チビタンダ』とか『ヒョロバルサ』とかお互いの悪口の応酬が書いてあってだな。まあ最初はそんな感じの可愛いものなんだが、だんだんと険悪さは増し、そのうち相手の寝小便のことやら馬糞を踏んだことやら、何から何まで引っ張り出して延々と書かれてあって、お前なめてるのか―――って、」

 ふと、意志の強そうな眉を疑問のかたちに傾けて、尋ねてくる。

「シュガ。お前、今日はこの言葉遣いを(たしな)めんのか?」

「―――ええ、まあ」

 彼はうなずいた。何の気なく部屋を見回すが、彼ら以外に人影はない。呼べばそうでもなかろうが、それと意識した声をあげなければ、それも叶わないであろう。先ほどとは違う空気の宮へと、シュガは(ささや)た。

人気(ひとけ)の無い今なら、こんな小声、構わないでしょう。聞き耳を立てることさえできますまい。なんといってもこの宮は、どこにも勝る、随一の広さを誇るのですから」

「それは違うな。シュガ」

 一言。

 シュガは、はっとして返り見た。チャグム皇太子は、言葉を続けた。

「世界は、もっと広いんだ」

 その漆黒の双眸(そうぼう)は、差し込む陽光を受けて輝いている。ちらちらと千変万化する、未知の(きら)めき。それはシュガが慣れ親しんだ、夜空に撒かれた星明りを髣髴(ほうふつ)とさせる―――

(ならばいつか、必ず読み解く)

 星の宮一の英才の名にかけて。

 誓いはただ胸奥(きょうおう)(つぶや)くにとどめ、シュガは未来の(みかど)たる少年へ向けて、深く(こうべ)を垂れた。