それは結婚に似ている
「なあ、いい子がいるんだが、結婚してくれないか?」
べふぁ、と目の前で茶を噴き出したジグロに、唐突にとんでもないことを言い出したカルナは、にこやかに布巾を差し出した。
茶は茶碗に口をつけた状態で吐きだしたので、机にぶちまけることはなかったものの、その分だけ派手に顔面にはじけ返ることとなった。今もぼたぼたと、雫が頬から口の端にかけて垂れている。ジグロは目を白黒させながらも反射的に礼を言いつつ、受け取った布巾で茶碗と顎を拭った。
晩餐にはまだ早い夕刻に男二人、卓を囲んで茶をすすっている。彼の娘は、婆やと出かけたとかで、まさしく独身者と男やもめだけの侘しい光景だった。改めて、自分と向かい合って席につく、正面の親友を見やる。カルナ。カルナ・ヨンサ。控えめに言っても、親愛なる古馴染みの部類に属する男だと言えた。急に自宅に人を誘っておいて何かと思えば、提供する話題に対してこちらがこういったリアクションを取るだろうと予想して、布巾まで手元に用意している周到さである―――異常な若さで(人のことは言えないが)出世を重ねゆくことにも頷ける。いや、それは勘繰り過ぎか。台所周りのことなどよく分からないが、茶を淹れる為の諸々の用意のなかに、布巾の一枚くらい含まれているのだろう……
(いかん。現実逃避はいかんぞ)
ジグロは、露骨に眉根が寄りそうになる顔面を掌で撫でるようにして、いったん隠した。指の隙間からうかがい知れたカルナの面構えは、いつもにも増して底意地の知れない笑顔だったようにも見えたが……
元々二つ返事をできる性分にあらずとも、とくにこれは、理解できないうちは安うけ合いしない方が無難であろう。ジグロは手を目元から外して、慎重に言葉を紡いだ。
「……俺は生来、所帯に馴染まん。遠慮する」
「ほんといい子なんだよー。ちょっとやんちゃで気は強いけど、優しいしお父さん思いだし。この間なんかも、寝ないでわたしの帰りを待っててくれてね。まあユーカの家で腕を折った時には、さすがにわたしも、妻のお腹に大事なものを置き去りにしたままあの子を取り上げてくれた産婆さんを恨んだけど……」
「話を聞け! って、その前に、お前の娘か!!」
思わず立ち上がって身を乗り出すが、対するカルナの反応は涼やかなものだった。椅子に座したまま笑みを絶やさず、ジグロが机を叩きつけて茶をひっくり返さないよう、椀をさりげなく遠ざけることすらしてみせる。
「いやあ、君なら安心だ。頼むよ、娘の将来」
「カルナ、春先から脳まで痴れたか? 娘思いはいいが、それゆえに冷静になるべきだ。確かに今、俺は<王の槍>として、王家指南役の地位まで頂いてはいる。金銭面・社会面では、お前の知り合いの中で、安心できる部類に入るかもしれない。だが―――」
「違う」
と―――続けられる。
「君の強さ。それだけにわたしは安堵する」
言い訳を重ねようとしていた唇が、その一言で脱力させられる。初めて不審を確かなものとし、ジグロは改めて、カルナを凝視した。相手に、目に見える何かがあったわけではない。カルナは常にそうあるように、身だしなみは整い、気配は整然とし、微笑んだ顔は緩やかに弛緩している。しかし、ジグロは急激に、それらに対する全ての自信が失われていくのを感じていた。
その感触に抵抗して、ひたすら胸中で繰り返す。ここは相手の自宅であって戦場ではなく、相手は地位も身分も安定した国王付きの医術師であって、末路を悟った死兵ではない。
(ないはずだ)
それでも自分は、決定的な違和感に触れている。
その確信だけを突きつけられ、戸惑いを隠せない。再度椅子に着座することすら忘れて腰を浮かせているこちらに対し、カルナは更にせりふを継いだ。
「願うならば、君の義理堅さ、君の……そうだね、誇りまでが、あるというならば。それでいい。それしか、頼むものはない」
「おい、一体何を―――」
「ジグロ。あの子の持参金は『喪失』だ」
場へ浸透しゆく言の葉は、異常さだけを相乗していく。
最早無視できない、決定的な変質の予兆とでも言うべきものに、ジグロは喘いだ。わけが分からない。それでも、言葉のベクトルがこちらへ向けられている以上、ここから捨て置かれることは許されない。
「あの子に添い遂げれば添い遂げるだけ、今手にしている全ては、君から喪失されていくだろう。まずは地位と名誉、そして家族と友達と、故郷そのものさえ。あるいは、命すら」
カルナが、笑みを深めた……
「無論、わたし自身も」
笑み?
(いや)
唐突な閃きに、悪寒すら覚える。違う。彼は微笑んでなどいない。ただ、頬を緩めているだけ―――
落涙を、恐怖を。あるいは、その全てを足し合わせるならば、狂気とでも呼ばれるべきそれを。力めば表出させてしまうだろうから、それゆえに全身全霊をもって、輪郭を脱力させている。
気づいてしまえば後悔しかなくとも、ジグロに抗うすべは残されていない。分かっていた。相手を問いただす野放図も、その言動から類推しようとする傲慢さも、言葉に耳をふさぐ怯惰すら、自分は持ち合わせてはいない。
だからこそか? 相手は言った。君の強さ。それだけに私は安堵する―――
「カルナ、お前」
「わたしは失われる。これは甘んじて受ける。君を巻き込む罪に下されるには、安い鉄槌だろうけれど」
「話を聞け、カルナ!」
耐えられず、ジグロは押し殺した怒声をあげた。
「いや、話を聞かせろ、カルナ―――!」
もう、怒声にすら装えない切望すら、こうして口にしたというのに。
知己は依怙地に笑う。だけ。
知己……知己?
これが、知己のやることであるものか!
限界だった。怒りと切迫に、机越しに相手の首元につかみかかることすらしてみせる。この場において、自分にそのような意気が残されていたことは意外だったが、……それを自覚することすら不可能な刹那の内に、その感情は胸奥より消えてしまう。
認めたくなかった。この自分こそが、親友を、今の状態へ至らしめているなど!
「バルサと駆け落ちしてくれ、ジグロ。あと―――数日以内に。それからの騒ぎの収拾は、わたしだけでつくだろう」
その時カルナが口にしたもののうち、最も核心に近い文述はそれだけだった。理解していた。相手は、狂気などという不純物をこちらへ吐露することはない。全ては、頼みとするジグロの強さの純度を保つ為に。強さ……強さ?
馬鹿げている。残酷なまでに矛盾している。この手を見ろ、カルナの襟首に手をかけている。狂気を圧殺し全ての期待をこちらへ残そうとする親友の有様に耐え切れず、絞めればカルナを殺せる位置に指をおいた。こうして身をもって告げているではないか。自分はお前のように狂気に耐えられやしない―――笑みを装うことすら叶わない―――お前に及ばぬ弱者であると!
(それでも、俺を頼ると)
ジグロはうなだれた。その腕さえもうなだれた。力の失せた五指が相手の命脈からだらりと落下して、卓にあたってこつりと響く。そして。
「―――った―――」
己の命脈は今このときも拍動し、だがそれに、さらに上乗せするかのように。
ジグロは喉を震わせ直す。
「分かった」