「……っ!?」
タンダは上体を跳ね上げると同時に目を覚ました。座り込んだまま、繰り返している呼吸の激しさに身震いする。動悸の速さに違和感がぬぐえず、思わず首筋から肋骨までをなでると、そこにある肌はわずかにほてっていた。が、奇妙なほどに、指先は冷感を感じていた。
夢にかき立てられた動揺は、すぐに収まった―――そこの慣れ親しんだ静謐さは、彼の些細な感情を受けたところで、揺らぎすらしなかったのだから。
「……最近、悪夢につながる様なひどい目にでもあったのか?」
「あ……」
頭上からの呼びかけに視線をめぐらすと、まずは陽光のまぶしさに顔をしかめることになった。それには手でひさしを作ることで抵抗しつつ、もう一度目を凝らすと、すらりと起立した偉丈夫が太陽を背負うような角度でこちらを見下ろしているのがわかる。ジグロだ。カンクイの詰まった籠を指に引っ掛けて、座り込んだままの彼を覗き込んできている。
タンダはぼんやりと、言葉を続けた。
「悪夢……だったんでしょうか。変な夢では、あったような」
「変?」
「俺は三十近い歳になってて、山小屋にほとんど一人で暮らしていて……呪術師をめざしながら、薬草師として地味に暮らしていて……」
ジグロを見つめているうちに、タンダは自分の感覚が夢から現実へとなじみ直していくのを感じていた。五感に染み入るそれらのうち、真っ先に感じたのは、日の恵みである。肌を焼くほどではない日差しは、初夏特有の柔らかさでもって、彼もろとも野山の緑を温めている。はるか遠く、ふもとの方に見えるのは、緑も豊かなヤシロ村の田畑。自分がいるこの地もそれに負けず劣らず青々として、苔むした木々からは絶えず草いきれが漂っている。ふわりとした下草は、上に居座り続ける浅黒い肌を受け止めていた―――
見回すまでも無かったはずだが、それでも、頭を巡らす。
タンダは、草木がわずかながら開けたなだらかな山肌に座り込んでいた。山菜をジグロとともに採りに来た折、小休止のつもりが、つい眠り込んでしまったらしい。ジグロが自分の籠まで携えていることに気付き、彼に自分の仕事まで担わせてしまった気後れを感じはしたものの、なぜか言葉はとまらなかった。
「バルサもいい歳になってるのに、いつまでも自覚もなしに用心棒を続けてる。うちに来るときはいつだって血まみれで―――その内に、宮中の揉め事や、分かりもしない精霊の世界にまで足を突っ込むはめになって……なんでだろ。そんな事あるはずが……ないのに……」
言葉が収束するにつれて、なぜか自信も失われていく。語尾が続かなくなるにつれ、タンダはジグロから目をそらしてかぶりを振った。
対するジグロの沈黙は長かったが、寡黙な彼にしてみれば、自然な間であったのだろう。ぼそぼそと抑揚なく、返事が紡ぎ出されてくる。
「……お前の伝えたいことが分かったとはいいがたいが、どうやら今の状況は、俺のほうが分かっているようだ」
きょとんとして、タンダは聞き返した。
「今の状況?」
「……今は、昼だ」
聞いても、分からない。様子から悟ったのか、ジグロはさらに続けた。
「俺たちは何人家族だ?」
「六人……ですけど」
「そうだ。今、山小屋に残っているのは四人。俺の娘と赤ん坊、それに育ち盛りの少年と、お前の師匠。そして、残りの二人はここにいる。俺と、お前だ」
「はい」
「で」
と、ジグロは籠を示した。自分の角度からだと見えないが、中身はそれなりに詰まっているらしい。きしり、と編まれた竹ひごが音を立てる。
「これがその六人の昼飯となる予定だ」
「…………」
黙り込んで、しばし。
それを終えた途端、どうしようもなく悲鳴が口を突いて出る。
「昼飯が遅れるのと、連中の機嫌は、反比例だ!!」
「その矛先は多分」
「言わないでくださいっ!! その先はっ!!」
タンダはジグロから自分の籠を受け取って、共に家に向かって駆け出した。
「遅いぞ馬鹿弟子が! 餓死させる気か!」
「すみませんすみません」
「すみませんで済むか! どうにか餓え死ぬ前だったものの、ほれみろ、やつれて皺だらけになってしまっただろうが!」
「それはたとえ、胃袋が満たされたところで不可逆的なのでは……」
「ふざけおって! まだ半分も人生を謳歌していない乙女に、面白くも無い軽口をたたくな!」
「ああああああ……すいません……なんかもう、ほんっとすいません……」
自分より低い位置にある白髪頭に平謝りしながら、タンダは乱れた呼吸を整えていた。本格的に鍛えた事などない体にとって、山の斜面の全力疾走は、こたえる以外のなんでもない―――よって、同じ距離を走ってきたというのに、隣に佇むジグロは息ひとつ乱していなかったが。平然とした顔で、雨あられと続くトロガイの悪罵を受け流している。
歴戦の猛者とただの青年の差としては当然だが、同じ男としては、微妙に理不尽さを覚えざるをえない。いまだ上ずっている息を宥めるように胸板を押さえ―――そしてジグロに比べてあまりに貧弱な薄さをしたそれに、更にどんよりと心が曇る。その手を返し、汗を拭ったとも頬を掻いたともいえる微妙な手付きで顔面を撫でて、タンダはまだ使っていない言い訳と謝罪の言葉を数え上げていた。と。
「もういいでしょ、トロガイさん。ますますお昼が遅れるよ」
痛んだ山小屋の引き戸をガタガタと鳴らして開けながら、中からチャグムが顔を出した。幼さの残る利発な顔立ちは、それよりもいささか大人びた苦笑を浮かべている。つまりは、駄々っ子を諌めるような。
トロガイも、指摘されるまでも無く分かっていたのだろう。舌打ちを一回だけその場に残し、機嫌悪そうに山小屋へと引き返していく。それと入れ違いに、駆けるようにしてチャグムが近くにやってきた。
「カンクイ、どれくらい見つかった? 山菜鍋に期待してもいい?」
「どんとまかせとけ。そりゃあもう大漁だったぞ」
「大漁って、魚に使う言葉じゃないか」
「ああ、そうか」
揚げ足をとられ、タンダは舌を巻いた。頭を掻いていると、その指に引っ掛けていた籠を、ひょいとジグロに奪われる。そのまま、裏手の小川へ歩いていこうとする―――下準備に、カンクイを洗ってくれるつもりなのだろう―――その表情を見ることができたのは、すれ違いの一瞬だけだったが、その無骨な造作は、多少の笑みを宿すことで和らいでいた。
「今度から、大量ということにしておけばいい」
「あ、ジグロさん、うまいこと言う!」
と、チャグムがまとわり尽くようにして、ジグロの後を追っていった。そしてそのまま、取りとめなく語りかけ続けていく。声変わりもしていない明るい声音に話しかけられるたび、両手に二人分の籠を下げたジグロは、律儀に相槌を打っていた。
タンダは、惰性でそれを眺めていた。
(あれ? なんだ……?)
感じた違和感を確かめるには遅すぎた。あっという間に、少年と武人は木陰に消える。
一人残され、タンダは脳裏に空白を挟んだ。手持ち無沙汰に、呆然と、周囲を見渡す。風は朝露を薙ぎ払って久しく、今も湿気を削り取っては、野山へとおし流していく。出かけた時には蕾を抱いていた雑草が、今は小さな花弁を三輪、掃天に向けて揺らしていた。干された洗濯物は生乾きで、空気が赴くままに、ふらふらと手招きじみた動きを繰り返している。
出かけた早朝とはそれなりに違う部分もあったが、日常という観点から見れば、何も変わっていない。トロガイは天衣無縫であり、チャグムは元気で、ジグロには無駄が無い。変わっていない……
(いや。なにか―――)
感じることがある。それを感じている。今日こうして自分が見回すのは、これで二度目だ。
「おい」
「うわっ! え……バルサ」
呼びかけへの過剰な反応に驚かされたのだろう。いつの間にか近くに立っていた彼女―――バルサは、有り体に言えば、怪訝そうだった。その表情をもう少し深くして、じっとこちらを覗き込んでくる。
「何をぼうっとしてんだい? こんな生ぬるいお天道様だってのに日射病か?」
「いや、そういった訳じゃ……って、おい、だからその抱き方は駄目だって!!」
ふと、赤ん坊を抱える彼女の手元に視線をやって、タンダは悲鳴を上げた。ついこの前も抱き方を指導されたばかりだという母親の矜持も手伝ってか、バルサの面差しに不服そうな気配が混じる。
「何でだよ。持ててるじゃないか」
「いや、だから、赤ん坊は持つもんじゃなくて抱くもんなんだって! 産着がずれてきてるじゃないか! ちゃんと肘に頭を乗せて―――ああほら、むずがってる……」
「それは、あんたが無駄に騒ぐからだろ」
「無駄じゃない! 断じて!」
きっぱり言って、タンダはなかばひったくる様にバルサの腕から赤ん坊を譲り受けた。こちらはもう慣れたもので、片手で産着を直して、しっかりと抱き込む。するとタンダの腕の中、ゆっくりと赤ん坊は顔を緩めて泣き止んだ。僅かに産着から飛び出た掌をもぞもぞさせているのを見て、なんの気なく、その掌に己の小指を絡ませる。
それは、きゅっと、思いがけない強さで握られた。
赤ん坊は、まだ日焼けを知らない白い顔に丸い目を埋めて、小さく速い呼吸を繰り返している。湿ってぺたりとした癖毛は日の光を受けながら茶色い色素を更に薄め、金色じみた輝きを帯びていた。直射日光から隠すように立ち居地を変えて、タンダは適当な喃語を口にしつつ、腕の中のそれを覗き込む。ぷくぷくしたそれは、気楽そうに父親を見返してくるだけだったが。
「あ。あっさり泣きやんじまいやがって。なんか腹立つねえ」
「娘だから父ちゃんのほうが好きなんだよなー。なー?」
調子に乗って赤ん坊相手にはしゃぐと、露骨ではないにせよ、バルサが不満そうに眉間を狭める。チャグムがこの間、バルサは子育てのうち、あやすことだけは亀の歩みでしか上達していないと茶化していたのを思い出し、タンダはわずかに苦笑した。それを悪い意味で捉えたらしい。バルサが鼻を鳴らして、大仰な仕草で腕を組む。
「どうせわたしは今のところ、赤ん坊よか刃物の方が持ちなれてる女だよ。今に見てろ、これから慣れりゃあいいだけなんだからね」
「期待してるよ」
言って―――
タンダの目は、彼女の手に引きつけられた。
左手の薬指。そこに輝く物がはまっている。視線に気づいたのだろう、ほれ、と軽く、バルサがかざして見せてくれた。
「それは……」
「あんた、なに寝ぼけてんだい?」
本当に大丈夫かこいつ、と如実に語る双眸に見つめられながら、タンダは彼女の言葉を聴いていた。赤ん坊の汗ばんだ掌が掴んでいる己の小指。そこから伝わってくる湿りと熱気を、はっきりと感じる……
「あんたが作り直して指飾りにしてよこした、あたしの短槍の刃もとの輪っかじゃないか」
その言葉が―――
ありえないと、彼は知っていた。
バルサの顔を見つめる。どことなく若い。そう思える。そう思えるのは、かすかにだが、皺の入り方が違っているせいだろう。眉間ではなく、えくぼの方が深い。笑い皺。
彼女が語るにつれ、それが深まりゆく。
「用心棒を辞めてここでみんなで暮らすことになった時、もう短槍は必要ないからって、輪をこんな綺麗に磨いて、作り直してくれちまってさ。ご覧よ、金で作ったみたいにみえる―――」
「だったら、これは嘘だ」
タンダは、告げた。
バルサはきょとんと呆けた。
が、告げ続けた。
「その輪は、とても、汚い。汚いんだ。バルサ。その輪がはまるのは指ではなく、人を貫く短槍の根元だ。いくら磨いても落ちない血で錆びついてる。きれいな指飾りより、使い込んだ短槍の方が、お前にははるかに必要だからだ」
「タンダ?」
「ジグロはもう逝った。チャグムは宮を選んだ。師匠はどこにも居つかない。カンクイは、こんな季節にはならない……バルサは用心棒以外にはならない……俺の嫁にも、この子の母親にも!」
「タンダ?」
呼びかけを無視する。一息に、吐き出し続ける。瞼を下ろし、タンダは視線を閉ざした。一方的に拒絶を重ねていく。そうでなければ、自分はここを望んでしまう。
ぬるく穏やかな時をここで過ごす。ジグロは生き、チャグムも食卓を囲み、トロガイが常に住む山小屋で、バルサと共に、育っていく娘を見守る。家族がもたらす茶飯事に一喜一憂し、そこに息づく喧騒を享受することに慣れてしまえばいい。おそらくそれは、多少の気苦労と引き換えに、ながらく求めていたものを充足してくれる。
それでも。
タンダは、吐息した。目を閉じたままで。
「そうだな。もしかしたら、こんな場所もあったのかもしれない。だとしたら、選ぶことだってできただろう。本当に、本当に、そう思う……でも、どの時も、俺達が選んできた場所は、ここじゃないから―――」
目を閉じても、感じるものはある。ぬくもり、やわらかさ、湿り気。それを感じさせる最たるものは、この腕に抱く赤ん坊―――それの掴んだ、彼の小指だった。その接触点はとてつもなく魅力的な感触でもって、彼を揺らがせる。赤ん坊。娘。彼女がめいいっぱいの掌で絡めるのは、自分の小指。
在り得ないと、知っている。
「だからこそ、思うだけで、ごめん」
赤子の指は、熱もろとも、ほどけて消える。
消えた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「―――ンダ、タンダ!! 開けるぞオイ、タンダ!!」
戸板を叩く音が山小屋の中に飛び込んでくるのをやめるのと、そこを叩いていた兄が山小屋に飛び込んでくるのとは、大した時間差もなかっただろう。
それとも。時間の差異など遠く及ばぬ、大いなる勘違いがあるというのか。生と死のように。有と無のように。夢と現のように?
夜が明けて、幾ばくも経ってはいまい―――素肌に触れる布団に体温を拒絶されれば、その程度のことは見ずとも知れる。タンダは自分が粗末な寝具から上半身だけを起こして、冷えた朝靄の隅にうずくまっているのを自覚した。何の応答をさせる間も許さずに、兄は農作業で引き締まった足を鳴らしながら板の間に上がりこみ、こちらのそばに駆け寄ってくる。それは、音で分かることだった。そして、肩をぶつけてくるようにして、間際にしゃがむ。それは、風で分かることだった―――
「村に来てくれ!! ニナがずっと寝てて、目ぇ覚まさねえんだ……って、おい」
そこまできてようやく兄は、じっと動かない弟の様子に気を留めたようだった。今にも引ったてようと肩口を掴んできた乱暴な手を、今度は気遣わしげにうごめかせてから、もう一度置きなおしてくる。そして、波を抑えた口調で―――しかし焦りを隠すことの無い早口で、聞いてきた。
「どうしたんだ、お前。悪い夢でも見たか?」
「……いや、そんなことは、ない……」
と、言うしかない―――
座ったまま、タンダは掌に顔をうずめている。
もうそのように外界から視野を隔てずとも、自分は三十路ちかい、独り身の、売れない薬草師でしかないというのに。
「ただ、夢を見なかっただけなんだ」
涙がこぼれたと思った。が、顔を離してみれば、睫毛さえ湿ってはいなかった。