……赤い。
間が保たず、カルナは呻いた。そのため息ともあきれ声ともつかない吐息は、のんきにぽかぽかした昼下がりの居間にこぼされるには似つかわしくなかったが、気にすることではない―――とりあえず、吐息は、こちらが不釣合いさを気にするより先に霧散するだろう。そして、何もかも無かったことになる。あるいは、無かったことと同じようになる。
(……こっちは、そうもいかないか)
横目にそれを見やって、むなしく確信を深める。
そして膝を折って屈んだカルナは、頭の高さごと、幼いバルサに視線を合わせた。自分の隣にたたずむ愛娘は、なにやら誇らしげに両手を掲げて、満面の笑みを浮かべている。
その両手には、べったりと赤い色が染み付いていた。
無論、毒でもなければ血でもない。食紅だった。婆やが菓子に使っているものらしかったが、今はその大きな瓶が、空っぽになって床に転がっている。入っていた中身といえば、その全てが、居間の壁に塗りたくられていた。
先ほど横目にした目の前の壁は、全面にわたって、真っ赤な絵が描かれていた。
赤い、拙い筆致に抽象を強いられた情景画が、白い壁いっぱいに広がっている。大中小と身長が異なる人間らしきものが三つならんでいて、その周囲を、よく分からないもやついたものが取り巻いていた。掌を叩きつけたのか、ぴたぴたと五指の跡が散っている。かすれた、小さい娘の手形が。
居間は、窓から差し込む陽光に晒されて、赤い絵を乱反射させていた。
彼は、娘に向かって口を開いた。
「何を描いたんだい……バルサ……」
口にした言葉は、冷えて固まった唇には重すぎた。囁くことすら今の自分にとって重労働だという事実に、はっと意識を呼び覚まされる。そして。
(っふ、う―――!?)
意識と共に、神経を剥ぎ取られるような激痛すら思い出す。肉声で悲鳴を上げることすらためらう、激烈な痛苦である。わけも分からず数秒を心中でもだえることに費やして、カルナはどうにかその数秒で、止めていた呼吸を取り戻すことに成功した。辛苦が無くなったわけではない―――が、どのようなことであれ、続けば慣れることができる。いいか悪いか知らないが。
目を見開いても、視界は暗かった。思わず、眼球が潰れた可能性について思考が傾きかけるが、汗に濡れた額に触れる空気の気配に、直感的に悟る。これは夜気だ。ゆえに、昼のようには目が利かない。夜……
(バルサの絵を見た昼から……こんな時間まで卒倒してた……?)
ありえない。馬鹿げた物思いは、それへの否定と共に、現実を掴む糸口を与えてはくれた。ばらばらだった認識が的確な構成を見せ、カルナはだらりと横たわったまま、朦朧とした意識の中で、自分が過去の記憶と今の情景を混同していることを理解した。
今は夜にもかかわらず、昼の記憶と混同したのは何故か? 医術師として、ふと原因を追究してくる理性に、彼はやけくそで解答した。当然だ。それは、目の前の壁が赤いからだ―――ただし、食紅ではなく、彼の血で。
(そしてこれが、走馬灯だから……)
愛娘のことが脳裏をよぎった。当然だろう?
床にうつ伏せたまま、途方も無い痛みと脱力感にあえぐ。呼吸する為に胸郭を上げ下ろしすることすら、満足に行えない。あるいはそれはダメージを受けた体性感覚の倒錯ではなく、死神がこの背中に座り込んでいるためであるのか。臨死者の断末魔を啜る為に―――
(駄目だ。ふざけるな。とんでもない愚か者か、わたしは。認めるな。これは窮地だ……)
夢想する余力は生きる為に使え。死神も走馬灯も、酸素が欠乏しているという脳の状態を判断する為の一要素としてのみ分析しろ。記憶のない数秒を想像で補って、彼は現状を把握しようともがいた。
夜に突然押し入ってきた暴漢どもに、真っ先に太刀を受けた。逃げようとするが、相手の一人から袈裟斬りを真正面に受け、その勢いに壁に叩きつけられ……ここで記憶が途切れている。壁。
彼は、自分のすぐ脇から聳える壁面を、ようやっと視線だけで見上げた。べったりと、濡れた雑巾を叩きつけたように、太く血痕が引かれている。黒ずんだ夜闇の中でも紛れることのない存在感を発するそれを、ようやっと目を動かして辿っていくと、―――忌々しくも―――床にへたばった自分へと繋がっていることがあっさり分かる。
(前をやられたんだ。背中からぶつかったなら、この血のつき方はありえない……無意識に、壁にすがろうとして反転したのか……?)
そして力尽き、壁に腹からよしかかったまま、ここまでずり落ちた。
(うつ伏せなら、這える)
這えるならば、逃げることができる。震える指先で、傷口を触診する。創傷。直線に、肩から、腹。内臓までは達していない―――ならば這っても、臓腑を引きずる心配はせずとも良い―――が、指紋に触れる粘着したぬるい組織は、これが脂肪までこぼれるほどの創傷であることを彼に告げている。いや、脂肪であるものか……これが内臓脂肪であったなら、とうの昔に、腹圧に負けたはらわたが飛び出ているはずだ。とすれば、このどろりと潤滑した組織は、凝固しかけた血液だ。つまり今の自分は、どういう状態だ?
(混乱状態だ)
言うまでもない。
流血は既に彼の衣服が吸い取れる容量を凌駕して泥沼のように広がり、四肢の重い枷となって纏わりついていた。動けない。
カルナはかぶりを振った。いや、そのような力は既になく、実際には首筋を引きつらせただけだったが。もう吐息にさえ気後れする。それをすればするほどに、何かかけがえのないものさえ吐き出していっている気がした。それは愚策である。犯してはいけない。駄目だ―――
(駄目じゃない)
彼は笑もうとした。やはりそのような余力はなく、それは達成できなかったが。きっとこれは、おかしなことなのだろう。
(ふざけないといけない。とんでもない愚か者だから、わたしは。認めるしかないじゃないか。これは窮地じゃない……死地なんだと)
暴漢どもは、彼の視界から外れたところで、ばたばたと物音を立てていた。棚を物色するような騒音が立て続く中には、陶器が破砕する音すら混じっている。乱闘したように見せかけるためだろう。わんわんと耳孔で飛び回る羽虫を連想させるような、酷い耳鳴りの中で―――それともこれは、血がさがる音か?―――ひときわ大きく、それがこだましている。
(ログサム王も、とんだ馬鹿をお使いなようだ……一刀で斬り伏せられた人間が、家財をしっちゃかめっちゃかにするほど立ち回れるものか……大体、わたしがこんな負傷をおしてまでそんな殺陣をやれるような武人ならば、わたし自身でバルサを連れて、とうに逃げているさ―――)
場違いな優越感を胸にあざ笑って、彼は身を震わせた。武人であれば―――
(武人)
ジグロ。
(ジグロォ―――)
言いかけていた。だが、咽喉に流れ込んだ血の味にむせて、カルナは全ての人語を忘れた。
ぞっとする。髄まで蔓延る理性が鳴り咲かせる、無音の警告。これは吐血か、喀血か。いや、臓器までは負傷してはいなかったはずだ。ならば口内を歯で切ったか、あるいは……そうだ、腹元までしかなかったはずの血だまりが、遂に、顔面まで覆うというのか……?
視界が曇る。血で?
涙だった。
透明な体液をへだてた瞳には、屋内に差し込む月光の輝きが増して見えた。きらめく光がひどくまぶしく、目を細めざるを得ない。例えそれが死に際の桃源であれ―――陽光まではいかずとも、陽光であると思い込めるほどまで、明るいと感じられる。
だとすれば。これが陽光で、白い壁には、赤く線が引かれているとするならば。
「何を描いたんだい……バルサ……」
彼は、呼びかけた。声にならぬ声だったはずなのに、しっかりと返事は脳裏をよぎる。それが実際に今、彼の鼓膜を震わせているのではないとしても。
―――あのね、これがわたし、これがおとうさん、これがばあや。でも、ほんとうはね、おかあさんもかきたかったの。
「そうか……お母さんも、描きたかったんだね……」
―――うん。でも、おかあさんと、おかあさんのだいすきなおはなが、かけなかった。なくなっちゃった。あかいの。
「……そうか、なら次は……足りなくならないように、小さく……」
記憶どおりのせりふをなぞり……いや、彼は僅かに、末尾を変えた。
「小さく描かなくても、赤色は、これだけあれば足りるだろうから―――だからバルサ、願うならば、今、この絵を描き切ってはくれないか?―――」
幸せな家族の肖像を。
その幼弱な筆先で、だからこその甘い想いを。
「バルサと……お父さんと、お母さんと……婆やと、お花を、いっぱい……」
記憶。白い壁。赤いすじ。ここまでは同じなのに、ここからはどこまでも違う。
描き手を失った今、赤い色ばかりをどれだけ足しても、あの絵にたどり着くはずはない。だとしても。残酷なことにあの時と同じ、記憶と、白い壁と、赤いすじは目の前にある。
(だったら、勘違いするくらい許されるさ。そうだろう? ―――)
刹那。彼は首に衝撃を感じ―――そしてそれが暴漢を装った暗殺者の一撃であった以上、カルナの呼気は、刃によって両断されたその喉頭から体液と共に漏れ出す以外になかった。
よって続くはずの吸気も失われ、全てが未完成のまま終息する。