カンバルがいかに貧しい国といえど、一分の隙もなく働き続けなければ懐具合が逼迫するというわけでもなければ、その事に気づく一分の隙さえ抱けぬほど精神的な余裕がないというわけでもない。それでも他国に比べカンバルが圧倒的に、遊び……遊興の類に乏しいのは、単に、武人を芯とした国民性に由来しているのだろう。武―――己を鍛える快感は、遊興に通じる部分を持っている。そして、それが遊びと違い、単なる一時の享楽で終わらずに、自分を育てているという自負にも繋がっているとなれば、そちらに熱意が傾くのも理にかなっている。振るべきは賽の目ではなく槍を持つ腕であり、堂々と示すべきは賭けの勝ち札ではなく己が氏族旗だとの矜持は、他国にも……何者にも勝る高揚を与えてくれる。
が、所詮それは、その国民性を誇る人間たちの裁量であって、誇りを築ききっていない幼子にとっては関係ないというものだ。特に、我が最愛のひとり娘にとっては。
というわけでカルナは、バルサに関する遊興費を制限することはなかった。
決して甘やかしているわけではない―――ただ、忙しい自分の代わりに、自分の買い与えたものがそばにあれば、婆やと二人だけで日暮らす幼いわが子の淋しさも、幾らかは紛らわせることができるに違いないと思っていた。幼馴染のムサ氏族はこの持論を展開するたびに懐疑的な様子を見せはするものの、カルナはあまり気にしたことはなかった。
(だって、ジグロのむっつりしたふけ顔より、バルサの笑った顔のほうが、私には得がたいものだからなぁ)
カルナは思わず緩む顔面を撫でながら、市場を先に駆け行くバルサを見つめていた。
今年でもう五歳を数えることになる愛娘は、あちこちに興味を引かれながら市場を進んでいく。見失わないよう派手な赤い服を着せているため、その様子は風にもまれる花びらのようだった。くるくると好き放題に駆け回っている。
市場は、人も物も、それなりに賑わっていた。カンバルに名の知れた市場といえばそうあるものでもないが、ここは王都の商売街路……王城に通じる道路から伸びる、賑わった界隈のひとつである。露店が多いという点で、繁華街などとは多少趣が違うが、それなりに店舗数も立ち並んでいた。どの露店も、一人か二人は足を止める程度には繁盛しているらしかった。彩りも鮮やかな商品に違和感の無い明るいざわめきと機敏な立ち回りがこすれあって、さらに喧騒に花を添えていく。
見るともなく、次々とそれらに横目を触れさせていく。外套を作る際に余ったのだろう毛皮の端で作られた小物は小さなウサギ―――これからの季節に需要が乏しくなる薄い織物類は、ささやかに値引きされている―――貝の内側の光沢から細工したのだろうか、真珠色の髪飾りは、青空をうつしてちらちらと輝いていた。
(バルサに似合うだろうか)
と。視線を翻した途端に、走っていた愛娘がぴたりと立ち止まる。
心が通じたかと思いかけたが、なんてことない。それは、既にお得意さんとなった菓子屋の前だ。
些細なぬか喜びは適当に捨てて、カルナはそこの店主と目だけで挨拶を交わしながら、そちらへと歩み寄った。そのわずかな時間も待ちきれないらしく、バルサがその場で地団太を踏むように、数回飛び跳ねる。
「おとうさん、マッロ、マッロ!」
「はいはい。本当にこれが好きなんだね、バルサは」
店主と結んだままの視線に、苦笑が混じるのを禁止しえない。マッロは果実をくるんだ軟らかい飴の菓子で、土ぼこりにまみれないよう吊るして陳列してあるため、どれだけ頑張っても幼女の背丈では届かないのである。カルナは代金を払って、幾つかのマッロを受け取った。
バルサがぱあっと表情を明るくし、カルナの服のすそと嬉戯するように、腰まわりにまとわりついてくる。その感触と重みは、ひどく心地よかった。
(同じように重たくても、王城の制服より、ずっとこっちの方がいい)
利便性に著しく欠けた鈍重な礼服を思い出し、カルナは吐息した。明日の今頃にはまた、あの枷のような縫製を纏い、御殿医として武装せねばならない。
しかしまあ、王のそばに控える際に袖を通す、あの刺繍服の冷たさに、感謝していない訳ではない。制服に縫いこめられた重責があるからこそ、自分はこうして娘と飴を買って戯れることができる。
何より、冷たいものの後に触れる温かさは、万倍に愛おしい。
「娘さん、大きくなりましたね」
「え?」
思いも寄らない店主からの声掛けに、カルナは呆けた声を出していた。名前は知らないが、すっかり馴染みとなったえくぼ顔を一層に深め、相手が続ける。
「いやね、ついこないだまで、飛んでも跳ねてもマッロまでかすりもしなかったのに、今見たら、あっさり届いちまいそうだったもんで」
「そんな馬鹿な。今の様子を見ていただろう? いつもと同じで、爪も触らなかったじゃないか」
「旦那ぁ、あたしゃあんたの娘を見て、こりゃたまらんと思いましてね、咄嗟にマッロの紐を引き上げといたんですよ。売るまではまだうちの商品。べたべたされちゃたまんないっすから」
かっかっか、と咳にも似た笑い声を、店主が弾けさせた。
「ああ……そう、か……」
呟き、それとなく、娘の頭を抱きよせる。カルナの胴にぶつかるおでこの高さは、確かに上がっていた。
そのまま店から離れて、いつもの、人の流れが落ち着く広場まで進む。広場といっても、そうすべく整備された場所という訳ではなく、単に買い付けを終えた客が一服しては取り留めなく談笑できるくらいには開けている道のひとつというだけだが。よって、たむろしているのは商人や商人目当ての商売人ばかりで、自分たちのような親子連れは珍しい。彼らの悪意のない視線が、幾らとなくカルナを撫でては過ぎていく。
その感触がおさまった頃に、カルナは立ち止まった。すると、カルナの帯に手首を巻きつけてじゃれることに夢中になっていたバルサが、立ち止まれずにぐるんと振り回される。きょとんと見上げてくる無邪気さに微笑をつられながら、カルナは屈んで娘と向かい合った。マッロの包みを開け、―――ふと、気づく。いつもなら条件反射のように、鳥の雛のごとく口を出し、飴が放り込まれるのをねだってくる娘が、今日はじっとこちらを見つめているだけだ。
「どうした? いつものように口をお開け」
「おとうさんもたべる?」
「うん?」
きょろりとした瞳に見つめられ、カルナは一瞬どう答えようか迷った。今日も今日とて、飴は彼女が満足する分しか買っていない。が、我が子が欲しているのは、そんな事実ではなかろう。笑みを絶やさず、言葉を続ける。
「ああ、わたしも食べるよ」
「じゃあ、あたしもたべる」
わずかばかり気になって、カルナは問いかけた。
「わたしが食べないなら、バルサも食べないのかい?」
「……だめ」
バルサがぷっと、頬を膨らませた。
「あたしもたべるから、おとうさんもたべなくちゃだめ」
それを聞いて―――
思わず笑い声を吹き出してしまいそうになり、カルナは必死にこらえた。おかげで、むせ返り損ねたような弾けた息に鼻先をくすぐられたが、いたしかたあるまい。そうしなければ、気の強い彼女はへそを曲げてしまうだろう。折角の日に、それは御免こうむりたかった。
そしてようやっと、一言だけ、娘に伝える。
「おそろいなのかい?」
バルサは、歯を見せて笑ってくれた。
いずれはこんな事もなくなるのだろう。先ほど、娘の背が自分の臍を越えていたことを思い出し、ちくりとした不安をも思い出す。この背はいずれ、自分の胴どころか頭さえ越えるだろう。いずれその頭は白髪が混じる。そしてその頃、自分は、娘がそれを見下ろしながら並んで歩くことさえ躊躇うような、貧相な老人へと変貌しているのか。並んで歩ける足腰が残されているかどうかも分からない。娘に垣間見える気丈な性格は、経時的に拍車が掛かっていくのだろうか。だとしたら、思春期の反抗は相当なものだろうか。その頃には、いい相手の一人でも見つけることが出来るだろうか―――
が、今は、父と飴を分けたがる娘がここにいる。
カルナはバルサの唇に飴を含ませた。バルサは父の手から一粒マッロを摘み、たどたどしくこちらの口へ運んでくる。彼がふざけて、飴をその指ごと軽く食むと、娘は「みひゃあ」とよく分からない奇声を上げた。そして指を引き戻し、ころころと笑い出す。
カルナも笑った。口内の甘味のように、温かな感情が心に広がる。
機会が続くかぎり、この時間を寵していこう。
カルナは立ち上がった。娘の手をとる。
ついこの間まで、大人の小指を握るだけでいっぱいいっぱいだったはずの小さな掌は、カルナの五指をしっかりと掴んでいた。
一抹の淋しさと共に、その幸せに指を絡める。
「さあ、行こうか。そう、今は……行けるうちに、どこまでも―――」
カルナとバルサは手を繋いだまま、人の間を抜けるように、進み出した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
―――飴玉はとけて消える。そうやって、潰えぬものなど何も無い。だとしても、無数の中のたったひとつの可能性でしかないいつかのために、今日の欣幸に水を注す気など毛頭ない。