〜DNDDの思うジグロ像〜
ええと。ただの読者でしかないDNDDが、このよーなことを語るのは偉そうなことです。分かっています。大体にして、小説の登場人物というのは小説でのみ表現されるべきでしょうという考えのもと、「あとがき」などで作者自身が「うちの主人公は〜」と言い出すことさえ、あまり受け入れられないタチのDNDDです(いえ、全然本筋に関係が無い裏設定をちょこちょこと小出しにされるのは大好きです。「うちの主人公はオムライスを作ったらケチャップでどんな字や絵をかけば子供ウケするかオムライスが冷めかかるまで悩んでると思いますよ」とか。ただ、性格とかを「○○はもともと執着するタチなんですよ」とか「あのシーンで主人公が言いよどんだのは、敵に回ったとはいえ、恋人をふっきれていなかったからですよ」とか書いた当人(作者自身)から言われると、読者としては、なすすべなく「そうなんだー」としか言えなくなるじゃありませんか)。こんなことは、大それたもん以外のなんでもないとは思ってはいるのですが。
最近、あまりにもDNDDの思うジグロ像と、その他多くの方が思っているのだろうジグロ像(および、テレビアニメーション『精霊の守り人』から波及した神山監督氏の描かれるジグロ像)が乖離(かいり)しつつあることに危機感が募り、ちょっとポリシーに反して、ぶつぶつと呟いてみようと思います。
のちのち、あんまりにもあんまりだと思ったら、このページは削除しますので、ここを読んでDNDDの価値観に異論があるぜよーとおっしゃる方は、しばらくお待ちになってみて下さい。きっと消えてます。
アニメーション『精霊の守り人』にて描かれたジグロは、「どんな男にも彼を超えることが出来ない」と周囲に感じさせる、裏表なく強靭(きょうじん)で根っからダンディズムというかハードボイルドというかストイックでスタイリッシュな、そういった存在であると感じられました。監督自身も、その「ジグロ像」については某雑誌にて語られていますし、それは疑いようがないところでしょう。
んで。逆に、DNDDのジグロ像はというと、
○神経質(≒繊細)
○意地・見栄っ張り
○内なる露悪趣味
⇔総じて、人に見せない部分では、誰よりも「脆(もろ)い」
というイメージが強いのです。
純粋に戦闘という行為に費やされる精神力と、それに関連して存在する有能さ以外は、ひどく華奢(きゃしゃ)な造作をしてたのではないかと。
だからというわけじゃないですけれど、DNDDの描くマンガジグロは、かなりのガリガリです。ガリマッチョのガリ極めましたって感じです。そして、細いつり目と、締まった眉根。鋭い目元を強調するように丸みが削(そ)げた頬は髪で隠すことで、肉の削げた肢体は鍛錬で無理矢理膨らませた筋肉で覆うことで、なんとかバランスを取っている―――そんなのですか。
恐らくDNDDのこのイメージは、原作の描写の中にあった、
@「16歳で<舞い手>をつとめあげ、<王の槍>、王家武術指南役へと選ばれた」というのに「槍の腕前を褒められてもむっつりと押し黙り、人前で槍を披露することを嫌がるようになった」ということ
Aユグロ(弟)に殺意を向けられたヒョウルのジグロが「哀しんだ」ということ
に、最も大きく影響されたような気がします。
これからDNDDがちょこちょこ引用する記述は、ほぼ<闇の守り人>からのものですので、またご参照くださいませ。
まず、DNDDが@から受けた印象ですが。
「褒められてもむっつり押し黙る」ということは、恐らくは、ジグロにとって「槍の腕前を褒められる」という行為が歓迎すべきものではなかったということだと思われます。なぜ、褒められることが、歓迎すべきものではなかったのでしょうか。
DNDDはここで、幼いジグロは「槍の腕前で、人格まで判断されてしまう」ことを厭(いと)うたのだろう、と思いました。
現代風に置き換えると、頭が良い子は行儀も良い子、といった無言の圧力に近いでしょうか。
さらに言い換えるなら、「さすが○○!」「やっぱ○○は出来が違うよなー」という感じのことを他者から言われた時に、「○○」という名前が自分の名前のくせにいやに他人行儀に感じ、プレッシャーを感じてしまう―――そんなやつがいやだったのではないかと。
普通ならばそこは、適当に20回といわず30回といわず反抗したりヘマしたり「俺はそんなんじゃねぇや」と正面きって悪ガキ大将になってみたりして、周囲の(身勝手な)期待をその回数の100倍くらい裏切りながら、『あー、裏切ったところで、俺は周囲(大人)から本当の意味で見捨てられたりしないんだな』(あるいは正反対に「あー、裏切るでも見限るでもして、親がいないところで子は育ってみてもいいんだな」)ということになんとなく気付いていくべき場面です。
しかし、ジグロがそういった行為に及んだことは、ないようです。ただ「むっつりと押し黙り、人前で槍を披露することを嫌がるようになった」だけ。
修行を放棄するとか、それに近い逸脱行為がみられるのが自然だと思われますが(いえ、DNDDが<守り人シリーズ>を読んでの感触ですので、ジグロが不良行為にいそしんでいたという説も完全には棄却できませんが)、むしろ、周囲に着目されていたとおりにめきめきと腕を上げ、弱冠16歳で<槍舞>を成し遂げ、<舞い手>→<王の槍>→王家武術指南役へと選抜されています。
なんででしょか?
DNDDはここで、ジグロはこういった、ちょっとした反抗やヘマという「ライトな裏切り」を、できる限り回避する生き方を選択したのではないかと思いました。
まわりの思いを裏切ることはできない。でも、その思いは負担すぎる。とはいえ、向けられる「思い」をはねつけることも出来ません―――まわりの思いを裏切ることはできないからです。なので、託される「思い」くらいは、できる限り避けたい。だからこそ、褒められるというかたちで明確に「思い」を託される場面も、できる限り避けたい。
よって、「槍の腕前を褒められてもむっつりと押し黙り、人前で槍を披露することを嫌がるようになった」にも関わらず、槍の腕前を上げるという周囲の期待には、出世と言う実績をもってしっかりと応えた……という、矛盾が両立するわけです。
さて。
そもそも根本的に、ジグロがまわりの思いを裏切ることができなかったのは、なぜなのでしょうか?
DNDDはそこに、「神経質(≒繊細)」と「意地・見栄っ張り」いう言葉がしっくりきました。
自分が望むと望むまいとに関わらず、周囲が自分に何を求めているかを逐一(ちくいち)把握してしまう「神経質」さと、重かろうが重すぎようが向けられた思いは全部抱きとめてしまう「繊細」さ。そして、その自分の「神経質(≒繊細)」さを周囲に気付かれまいとする「意地・見栄っ張り」です。ジグロは、槍の才能がありました―――そして「神経質(≒繊細)」さゆえにそれを自覚し、それに即した生き方を周囲から求められていることにも気付いてしまい、「自分の腕ならば周囲に求められているその生き方が『できる』」と気負ってしまうことも厭わない「意地・見栄っ張り」です。
ええと。つまり、周りから「○○ちゃんはイイコだからできるわよね?」と言われて「うん、できるよ! だってぼく、いいこだもん!」と言ってしまい「大丈夫?」と聞かれても「大丈夫!」と応えるしかなくなってしまった子ども……の、延長線上とでも例えればいいのでしょうか。実際に、この子は「イイコ」ですし、「イイコ」で居続ける才能もあるし、周囲もこの子自身もそれを自覚しているし期待している―――そんな感じです。必ずしもいい意味でなく、ピグマリオン効果の集大成と言えるかもしれませんね
んで。延長線にとんとん拍子に乗っかり続けた結果、それが板についてしまった。と。
DNDDは、ジグロはそんな自分にプライドを持っていると同時に、とてつもないコンプレックスも持っていると思うのです。周囲の期待に、その期待以上の実績をもって応えてきたというプライド。そして、そうやって周囲の期待に応えてきたということそのものが「周囲の価値 > 自分の価値」という不等号を証明し続けていることなのではないか―――という、恐々(きょうきょう)としたコンプレックスです。このコンプレックスは、嫌悪というよりか、恐怖に近かったと思います。
「誰よりも強い<王の槍>」であるということは、実は「自分自身ですら味方ではない = 自分の本当の望みよりも、周囲の望み(期待)を率先させて生きている」からなのだという、とてつもない汚点の存在をも証明してしまう。
そして、そうやって自分自身が優秀であることを自覚するたびに、その汚点をも痛感してしまうという「露悪趣味」も兼ね備えている。
まあ、「意地・見栄っ張り」なので、そんなことはおくびにも出しませんが。つまりこれが「内なる露悪趣味」なんですけど。
ところで。
おくびにも口にも出さない分、ジグロはカルナを尊敬し―――そして同じくらい相手に劣等感を抱いていたのではないか、ともDNDDは思っています。
なんでこんなとこにカルナ? と疑問視されるかもしれませんが、DNDDの中では、これもわりと表裏一体です。
どうやらカルナは、<氏族長筋>の家系ではありません(バルサの回顧の中であやふやな言い方をされているだけですから、これも断言はできませんが)。シシームが「<氏族長筋>以外の家系の人間は、異国と戦争をするための兵士に過ぎない」と言ってますし、恐らく一般的な<氏族長筋>の家系以外の武人階級の男性は、自分の氏族領で放牧やなんやらの家業をこなして武芸を磨くこと(+冬季の出稼ぎ)で一生を終えるかと思われます。それだけてんてこ舞いに働いても、貧乏で仕方がなさそうな感じです(卵の黄身を思い出すだけで喉を鳴らすカッサの描写から、そう推測しただけなのですけれど)。
そんで、ここからは、ひじょーに妄想なのですが。
カルナの下には、ユーカという妹がいます。兄ちゃんよりも頭がいいと評判の妹です。
この兄妹、王都の高学堂(こうがくどう)という、多分一流のエリート養成機関であろう学舎へと進学しています。
さて。
はたして「年がら年中働いても貧乏な<氏族長筋>の家系以外の武人階級の家庭」で、2人も王都に進学させるだけの費用を捻出することが可能でしょうか?
無理だと思います。奨学金などの制度があったとしても、せいぜい1人―――となると、当然、より見込みがありそうな「兄ちゃんよりも頭がいいと評判の妹」の方を進学させるのではないでしょうか? カルナ。お前はいざと言う時、兵士となる身だ。守るべき領地にとどまるのに抵抗はなかろう? ああそうだな。頭がいいことは認める。ならばこのヨンサ領にて、後生を育てるが良い。医術に興味があることも認める。ならばヨンサ領にて、同じく兵士となる身である領民たちを癒してやるが良い。なぁカルナ。なにも、王都にて国家に尽くす意味など、必ずしもないではないか? ……こんな風に、説得されたのではないかと思われます。
しかし、現にカルナはユーカに先じて王都へ旅立っています。どうして?
カルナ自身が、それを望んだからです。
周囲はカルナの才覚を認めていなかったわけではなく、できればユーカに本腰を入れて支援したいと思っていただけなので、多少がっかりしながらもカルナを送り出したのではないでしょうか。カルナはそして、王都に来た、と。
この時、彼は16歳です。
同じ16歳でありながら、<氏族長筋>の家系以外であるにもかかわらず自分自身の意志で王都に挑んだカルナと、<氏族長筋>生まれで周囲の期待に応えるがままに才能を開花させた結果として王都まで流されてきたジグロという二者関係が、ここに生じるわけですね。DNDDの中では。
カルナではなくユーカが地元に戻って施療院(せりょういん)を開いたのは、カルナが御殿医となり王都に定住しなければならなくなったということが決定打なのでしょうけれど、もしカルナがそうならなくて町医者どまりになったとしても、ユーカだけヨンサ氏族領に戻ったんじゃないかなぁと思っています。王都で勉強がしたい―――と本気で望んでいる兄に課せられた、ヨンサ氏族領で果たすべき職責を、自分が代行するために。
なんでこうまでして彼女が兄を支えるかというと、これも妄想で―――
おふ。閑話休題。
……とはいえ、これはジグロとカルナが同年齢に近いと仮定した時の話であり、「カルナの年齢にまつわる疑問」で話したように二人が本当に6歳差であれば、ユーカとカルナの年齢差は7歳。兄が進学した当時は9歳だった妹はその後に才能を開花&開花するまでの期間で進学費用を再貯蓄済み、という展開もありえるわけですが。
すみません。DNDDのなかでは、ジグロとカルナは同い年なんです。つまりジグロとカルナが16歳ならユーカは15歳です。ご都合主義ですか。申し訳ない。
でもって<闇>にあるユーカの「わたしとカルナ兄さんとジグロは王都の高学堂で出合って以来、一番の親友だったのよ」というせりふは、「カルナとジグロが親友だったところに、あとから進学してきたユーカが混ざった」という風に解釈しています。ごめんなさい。
つまり、カルナが王の主治医に抜擢されたのが32歳じゃなくて22歳ならつじつまが合うのになぁとか考えちゃってごめんなさい。
そしてそのつじつまが合う設定に甘えて、そのまま「ジグロ&カルナは同年齢」で小説を書き続けてごめんなさい。
ええい。閑話休題だってのに。
んで、話に戻って、Aユグロ(弟)に殺意を向けられたヒョウルのジグロが「哀しんだ」ということ、なんですが。
バルサはこの哀しみを、「ユグロを殺すから哀しいんだ」といった風に理解している節(ふし)がありますが、DNDDにはそうは思えませんでした。いえ。バルサがこの時そう思ったことそのものに関しては、共感していますけど。
「闇の守り人」の中では、若いジグロと、若いユグロの描写がされています。DNDDの読解した範囲では、若いジグロは無骨であまり人を寄せ付けるタチでなく、若いユグロは闊達(かったつ)で話術も軽妙に操る人気者だった……といった印象を受けました。
さて。さっきからぐだぐだと述べているように、DNDDのイメージでは、ジグロは「周囲の期待に応え続け、また応え続ける能力があるがゆえに、周囲の描く自己像と自分の描く自己像の落差にがんじがらめになっているネガティブ野郎(それを覆い隠して余りある見栄&意地っ張り)」です。
ジグロは、周囲の期待に的確に応えてきました。能力でも、行動でも。だからこそ、周囲が理想する「武人とはこう在(あ)るべき」という観念にも囚われてしまったと思われます。「無骨」というのもそのひとつ。武人は腕でのみ己を語り、口で語ってはならない。武人は軽薄であってはならない。武人は己を律しなければならない。武人は研鑽(けんさん)に努めなければならない……。
で。結果として、あまりの「武人」っぷりが放ちまくる近寄りがたいオーラに、誰ひとり寄り付かなくなってしまった(カルナ以外)、と。
それでも、さみしいからと群れることはできません。「武人」だから。
今更、素の自分を出すこともできません。「意地・見栄っ張り」だから。大体にして、「内なる露悪趣味」の産物である汚点 = 素の自分 なんて散々なものを衆目にさらせる道理もないと考えています。
ついでに、素の自分なんてものを、今更周囲は望んでいないということも感じ取っています。「神経質(≒繊細)」だから。
しかもここで、一段と矛盾した思いを抱え込むハメになります。
「周囲の期待に応えているのに、なんで自分は周囲から距離を置かれているのか」ということです。
そんなの理由は簡単で、あまりに完璧な奴の近くにいたら堅苦しくてしゃーないからなんですが、だからといってジグロは完璧じゃなくなることなんて出来ません。理由は、先に述べたとおり。
ここで、10歳はなれた弟であるユグロの存在が絡んできます(「10歳」の根拠はコチラの年齢表でご確認下さい)。
おそらく、王都に来て以来、ほぼ、ジグロはじかにユグロと会った事はないんじゃないか―――と思われます。年齢差もさることながら、ジグロはエリートとして忙殺される日々だろうからです。
自然に、ジグロはユグロについて、成長した弟は槍の腕ではジグロに劣るものの、闊達(かったつ)で話術も軽妙に操る人気者だと伝え聞くだけ……というシチュエーションになります。
「なぜユグロは、槍の腕と、陽気な人望を両立できるのだろうか?」とジグロは考えます。そして、コンプレックスに根付く「内なる露悪趣味」ゆえに、こう結論付けるのです―――「自分にある汚点が、彼にはないからだ」。
常に他人に望まれるように行動し、誰かと話をすることすら「武人」という後ろ盾がなければ、ままならない自分。
だというのに、誰にでも素直に明るく接し、コミュニケーションに長(た)けた、武人としてもそこそこ腕の立つ弟。
たとえそれが大いなる勘違いだったところで、じかにユグロと交流する場面が無かった(か、限られていた)ために、その考えが訂正されることは無かったでしょう。よちよちあるきのユグロをあやしていたジグロの様子から、ジグロは弟を邪険には思っていなかったことが伺えますので、「身内かわいがり」のフィルタリングがされていた可能性も否めませんし。
ですからジグロは、弟を、尊(とうと)く感じていたのではないかと思います。
「内なる露悪趣味」ゆえに、弟を妬(ねた)むなんて大それたことは出来ません。
自分には汚点がある。それを隠して生きることで、なんとか「ジグロ」として体裁を保っている。しかし、ユグロには汚点はない。だから何かを隠して生きる必要はなく、素のままで「ユグロ」でいることができている……と。
だからこそ、ヒョウルになり、ユグロの前に立った時―――
それはジグロにとって、哀しまざるをえなかった状況だったのではないでしょうか。
ジグロのせいで、ユグロは人生に汚点を刻まれたのだと―――隠れ、人目を忍ぶように暮らさねばならない年月を強いられたのだと―――いう事実と。
そして、「本当のことのように嘘をつく」という汚点が、『もとから彼にも存在していた』という真実。
これが、ジグロが流した「哀しみ」ではないかと、DNDDは思っています。
そして、ユグロへの殺意へと変わる衝動の、アーキタイプでもあったと思っています。
……ええと。
なんとなーく、ご理解いただけたでしょうか。以上が、DNDDが、ジグロは
○神経質(≒繊細)
○意地・見栄っ張り
○内なる露悪趣味
⇔総じて、人に見せない部分では、誰よりも「脆い」
といった人物像ではないか、という経緯です。
なにはともあれ。
ジグロという人物に興味が尽きることなく、今日に至ります。
できれば、DNDDが<守り人シリーズ>を通読して受け取った「ジグロ」と、そこからDNDDが発信する「ジグロ」を、見守っていただければ幸いです。
ええと、いかがなもんでしたでしょうか? DNDDの「ジグロ・ムサ」
とりあえず、ここまでお付き合いいただいた方、ありがとうございました。
そして、とりあえず一番下までスクロールして様子見をしている方、できればもう一度、暇を見て、DNDDの呆れた見解にお付き合いくだされば幸いです。
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